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湯浅直樹 引退会見
2022-01-28 (金) 15:03
2022年1/27(木)アルペンレーサー湯浅直樹が引退会見を行った。すでに自身のSNS等で今シーズン限りでの引退を表明していたが会見という場で直接、本人の口からその真意が語られた。
引退という決断に至るにあたって「今シーズンはオリンピックシーズンということもあり、勝つためにやってきた。12月のイタリアでのFISレースで1本目トップと3秒差。精神的にも追い詰められたタイム差であった。2本目だけでもベストタイムを出そうと、自分の中でも修正して滑ることはできたと思ったのだが、タイム差は全く縮まることがなかった。むしろ優勝した選手とはさらにタイム差を広げられる結果となった。これまで経験したことがない状況に直面し、レース後に映像で見返しても明らかにキレを欠いた滑りであった。そのレース後に大瀧コーチにもうこれ以上速く滑ることはできない。次のレースで最後にしようと思いますと伝えました」「いつもは明るくふるまってくれる大瀧コーチも何も言わずにうなずいて、ひと言「分かった」と。その時に自分の滑りが限界であったという共通認識であったと思いました」と述べた。
会見に同席した大瀧詞久コーチからも「12月のイタリアでのレース後、これまで弱音を吐くことなかった湯浅選手からもう無理です。滑りとしても限界です。という言葉をきいて、滑りの質については本人がいちばん分かっているという思いから、お互いに納得して引退という決断に至りました」とコメント。
また、湯浅選手からは「オリンピックに挑戦するという目標を掲げながらも残念な結果となってしまったことを振り返ってみると、2018年以降、ケガの多いシーズンを連続して過ごしてしまったことが大きな要因ではないか。2018年は全日本選手権で優勝し、ワールドカップへの出場権利も獲得したが、ワールドカップ復帰戦となったレースで1旗門目にも到達することなく左ふくらはぎの筋断裂というケガを負いました。元々悪かった左膝がこのケガをきっかけにさらに悪化することになった。もう1度世界のトップに戻るために人工関節を入れるという決断になりました。その年の全日本選手権は手術からあまり時間もなく6位という結果でしたが、その翌年の全日本選手権ではまた優勝することができました。人工関節を入れても世界のトップへと挑戦できるというアピールができたと思っていたのですが、その直後のロシアでのファーイーストカップで左足首を骨折しました。こういった連続したケガでのフィジカルの問題。そして、より制限された足首の可動域といったところは滑りに大きく影響し、いいパフォーマンスを出すことができなくてなっていったのではないかと自分で分析しています。」とも述べた。
しかし「このような形で選手生活を終えることになったが、自分としては心からやりきったと思います」と晴々として表情で引退までの経緯を語った。
そして「引退するにあたり心残りであったのは、小学校3年生から世界イチになると決めてアルペンスキーを始めたが、それを達成することができずに終えるというところです。それでも、今シーズンまで全力で戦ったと胸をはって言うことはできるので、ここまで支えてくださった方々にお礼を申し上げたいと思います。そしてこれからスキーというものにどれだけ貢献できるかということを考えている」と述べた。
これまでのレースのなかでは2017年フランス・ヴァルディゼールでのワールドカップが印象的なレースであったという。ベストリザルトといえば2012年イタリア・マドンナ・ディ・カンピリオで3位表彰台にのぼったことになると思われるが、その理由として、当時、それまでは苦悩のシーズンを過ごしてきたなかで、イタリアのナショナルチームと一緒にトレーニングをする機会を得たが、通用しないのではないかと思っていた。しかし、トレーニングをした3日ほどでワールドカップで上位に入ることができると確信した滑りに劇的に変化したという。その3日で得られた確信の結果10位というリザルト。そしてほんの数日での劇的な変化と自分のやってきたことが間違いではなかっという思いから本人の中では印象深いレースとなっているという。
すでに帰国後、国内のレースに参加するなど残りのシーズンについては朝里、そして4月の野沢温泉でのFISレースを引退レースとして参加する予定だという。
今後についてはまだ具体的ではないが、これから世界を目指す若手のために育成や強化に携わっていく予定だという。これまではそういった立場には向いていないと感じていたが、平昌オリンピック後、国内のレースに参戦する機会が増え、その中で若い選手と接していくうちに彼らの熱意や悩みなど質問をされる機会が増えていったという。それに応えていくということが大事だと気づき、自分がこれまで培ってきた技術や経験が彼らのためになるだろうと。そういったところが育成や強化に携わっていこうと思った理由となったようだ。
長年に渡る競技生活を続けることができた要因として、自身で誇れるものは無尽蔵のモチベーションであったという。そしてその原動力となったのは憧れ。子どもの頃に見たアルベルト・トンバが勝つ姿のかっこよさという衝撃が消えることがなかったという。その憧れという感情の強さというものもこれからの若いレーサーに伝えていきたいという。
あらためて「アルペンスキーというものは私のすべてであった。今、強くなる必要のない生活をおくり、すこし空虚感やむなしさのようなものを感じている。それを感じるとあらためてスキーというものが自分のすべてであったと感じている」と述べ、最後に「長いようであっという間であった30年間の競技人生であったが、ひとつの競技にここまで真摯に向き合えることができて本当に幸せであった。それを実現させてくれたすべての皆様と30年間がんばってくれた体にもお礼を言いたいと思う」と会見を締めくくった。